今年は太平洋戦争の終結から80年となります。戦争を体験した人が減るなか、10万人が犠牲となった東京大空襲を後世に伝えるため、焼け跡の保存作業が始まりました。

■戦後80年 薄れゆく戦争の記憶

 黒い壁と天井に囲まれた小さな部屋。80年前、この部屋はおよそ10万人の命を奪った炎によって、黒い“すす”に覆われました。

賛育会 遠矢充宏さん 「何に使っていたのかよく分からないが、そのためにそのままの状態で残っている」

 東京・墨田区にある賛育会病院の旧本館。この“すす”は東京大空襲による恐ろしい爪痕そのものです。1945年3月10日の未明、アメリカ軍のB29が落とした無数の焼夷(しょうい)弾が病院のある下町一帯を焼け野原に変えました。

 当時15歳だった星野雅子さん(94)。

星野雅子さん 「(防空壕(ごう)に)警棒団の人が来て、『きょうの空襲はちょっと規模が違うから、ここにいると危ないから逃げて下さい』と言われて。火の粉が飛んでくるのは分かった。下を向いて沿道の人が水をかけてくれた」

 星野さんは病院から300メートルほど離れた公園に逃げ、命をつなぎました。しかし、朝日が昇ると、変わり果てた街が広がっていました。

星野雅子さん 「焼け野原で(空襲前は見えなかった)上野駅の駅舎が見えた。あ、上野駅だって、びっくりしたのをすごく記憶に残っている」

 この日の東京大空襲で焼失した建物はおよそ27万軒。およそ10万人が命を落としました。

 賛育会病院も火の海に包まれましたが、コンクリートでできた建物は奇跡的に焼け残り、医師や患者らの犠牲もありませんでした。

 終戦の翌年、診療を再開しましたが、屋上にあったこの小さな部屋だけはほぼ手付かずのまま。悲惨な戦争の記憶を80年もの間、静かにとどめていました。

■東京大空襲の焼け跡を後世に

 しかし、建物の老朽化が進み、去年、旧本館を解体することに。工事に先立ち専門家が調査したところ、この部屋が貴重な歴史的遺構であることが分かったのです。

東京大空襲・戦災資料センター 千地健太学芸員 「率直に驚いたという感じ。こんなものが残っているとは。一部屋という規模で黒くなっているのは知る限り、他にはない。取り壊される前にできるだけ残そう」

 部屋のすすけた木片や壁の一部が切り出され、別の施設で保存、展示されることになりました。

東京大空襲・戦災資料センター 千地健太学芸員 「火災の激しさや悲惨さを感じてもらう助けになるのではないかなと思う」

 戦争体験者の声を直接聴く機会は少なくなっています。

賛育会 遠矢充宏さん 「屋上付近の物が真っ黒になってしまうだけの炎に包まれる大きな空襲があったんだという歴史的な事実を伝えるものとして、皆さんに伝えてもらいたい」