■若き兵士“癒した”戦時下のアイドル

 何かとストレスを抱え、不安定な毎日―。

 そんな現代社会では“アイドルの存在”を「心の支え」にしている人も少なくありません。

アイドルのライブに参加したファン 「“推し”っていうのは人生を豊かにしてくれる存在。推しが頑張っている姿を見て、自分も日々頑張ろうと思える」

 今からおよそ80年前―。戦時中にも、若き兵士たちの心を癒した“元祖アイドル”が存在しました。アイドル達も戦況の悪化と共に、様々な形で戦争に巻き込まれていくことに。戦時下を生きたアイドルたちの足跡を辿りました。

望田市郎さん(92) 「懐かしい…というか通り越して感無量というのかね…」

 望田市郎さん92才。戦時中、かつてこの場所にあった“人気劇場”に通っていた1人です。

望田市郎さん(92) 「この辺だね、この辺だと思う“ムーラン”は」

 新宿駅のすぐそばにあった小劇場「ムーランルージュ新宿座」。

 歌や踊りに時事風刺劇などを組み合わせる「レヴュー」の劇場として、戦火のなかでも幕を上げ続けました。

望田市郎さん(92) 「ずっとこの道を(観客が)列を作って。インテリのファンが多かった。国語学者の金田一京助さんとか若いときの黒澤明さん」

 多くの著名人も通ったこの劇場には、ある“看板スター”がいたと言います。

望田市郎さん(92) 「『明日待子さん』という、今でいうアイドルの“元祖”がいた。(当時)子どもから見たらお姉さん。アイドルでも品性のある素晴らしい女性でしたね」

 13歳からムーランルージュで活躍した明日待子(あした まつこ)さん。(1920~2019)

 そのかわいらしい風貌を一目見ようと多くの人が駆けつけました。

望田市郎さん(92) 「慶應と早稲田の学生が(劇場内を)二分していて、『ムーランルージュで早慶戦がある』という。上手と下手に分かれて(アイドルへの)『声援合戦』をやったという話は聞いたことがあります」

 生前の明日さんが戦時下の劇場の様子を語る貴重な映像が残されています。

■空襲警報で避難「命がけ」の公演

明日待子さん(2017年撮影) 「観劇した方も「『空襲警報!』って言ったら(劇場から)出てください」ってね。そしたら皆さんその辺の防空壕に入って、私たちも地下に。他に娯楽がない。だから一生懸命でした。私たちもね、命がけ」

 その後、戦局が悪化すると、学徒出陣で出征を余儀なくされた若者たちが「明日さんを目に焼き付けよう」と、続々と劇場を訪れるようになったと言います。

映画「ムーランルージュの青春」 田中じゅうこう提供 「自分は明日出征します。必ず戻ってきますから、待っていてください。明日待子バンザーイ!!都の西北~早稲田の森に~」

演出家 津上忠さん 「明日待子さんはじめ、みんな泣き出しちゃって…みんな泣き出しちゃってね~(舞台が)止まちゃったよ。ああいう時代があったんだよな…」

 ムーランルージュに通い、出征した兵士の手記には…。

■ “アイドル”想い「長い戦場堪えた」

新宿百選・別冊ムーラン・ルージュ特集号 「新宿百選会」発行 「戦地へ行ってからも、私はいつも『ムーラン・ルージュ』のステージと、そこに活躍した女優たちを目先に思い浮かべることで自分の胸を温めた。残酷な、時には退屈な、長い戦場生活に堪えることの出来た(中略)心の底からお礼を言いたい。」

 戦時下のアイドルを研究する押田信子さんは、『アイドルの持つ力に、次第に「国」も目を向けるようになっていった』と話します。

中央大学 経済研究所 押田信子さん 「アイドルの人気、癒し性。そういったものは『大衆動員の 1 つの大きな装置』になる。戦時下のアイドルというのは国内においてはそういった役目もしていたんじゃないかと思います」

■「幻の雑誌」アイドルの“笑顔と言葉”

 それを裏付けるのが、戦地の兵士のために特別に作られた「慰問雑誌」と言われるもの。

 制作は出版社がおこなっていましたが、発行には陸軍・海軍が関わっていました。

 最大で200万部以上も発行されたと言われますが、今ではすっかり幻の雑誌となっています。

 その雑誌にあったのは、戦時中とは思えないアイドルたちの「笑顔」でした。

 中でも目を引くのが、写真に添えられていた「慰問文」です。

戦線文庫 第3号(1938年11月)

「お元気でますます御奮戦のことと拝察いたします。戦地は私どもには想像もつかない厳寒がつづくとか、何か御不自由はございませんか。」 (橘公子)

「海軍のみな様、本当に本当にありがとう。(中略)ただもう、ぢっとしてをれない感激に、熱い涙を覚えるばかりでございます。」 (高杉早苗)

 日本軍の戦果を称賛する女性たちが並び、兵士らを気遣う恋人のような言葉も添えられています。

 しかし、押田さんは、こうした慰問文は「編集者が女優の姿を借りて書いた可能性が高い」と指摘します。

中央大学 経済研究所 押田信子さん 「大変男心を篭絡(ろうらく)するような言葉が書けて『うまいな~』と思う言葉が書かれているんですね。それはやはり“プロ”が書いていると私は思う」

 一方で、慰問雑誌を受け取った兵士たちは-

兵士からの投稿 「戦線での何よりの楽しみは何といっても『スター』のブロマイドです。最近のブロなるべく早くお送りください。」

中央大学 経済研究所 押田信子さん 「(前線の兵士は)自分たちのこれからの戦い、どうなるんだろうとか。心の愛しい人のことを思ったり、両親のことを思ったり、ふるさとのことを思ったり。(慰問雑誌は)そういうものをある程度封じ込める。アイドルの存在というのは、ある意味でモルヒネのような、麻酔薬のような存在でもあったのかなと」

 この他にも、戦地の兵士を“笑い”で慰問するために芸人が中心となって結成された「わらわし隊」。

 戦地に歓声、笑顔があふれました。

 さらに、小さなこどもたちも…。

「東京では日の丸幼稚園のかわいいお友達が、傷病兵のおじさんたちをお見舞いしました。かわいいお見舞い客を迎えておじさんたちは大喜び。傷の痛みも忘れて大ニコニコです」

 こうした慰問活動は現代でも…。

 去年11月、ステージで楽器を手に歌う女性。

 ロシア人兵士を慰問するため、戦地に赴いた女優です。

 女優は慰問活動中、砲撃を受け、命を落としましたー。

 そして、慰問によって、終戦後、心に“深い傷”を負った人も…。

■「戦争に利用された事実忘れない」

 今年生誕100年を迎えた、昭和を代表する女優・高峰秀子さん。

 戦時中も兵士から絶大な人気を誇り、高峰さんのブロマイドは慰問品として戦地へ大量に送られました。

高峰秀子『わたしの渡世日記』 「中国大陸に散った無数の私のブロマイドは、日本の兵士たちに鉄砲の下をくぐる勇気を与えたのか、あるいは祖国への郷愁、母や恋人や姉妹への恋慕をつのらせたのか、私は知らないけれど、一枚のブロマイドでさえ、戦争に利用されたという事実は忘れることが出来ない」

■「もう二度と戦争は嫌です」

 5年前、札幌で99年の生涯に幕を閉じた明日さん。

 最後までその姿を見てきた娘の淑妃さんは-。

明日待子さんの娘 淑妃さん 「(母は)その当時は正しいとか正しくないとかきっと分からなかった。だけど自分が大事で大切に思ってきた芸事・娯楽を皆さんに届けたいという気持ちで一生懸命やってきたのだと思います」

 戦後は舞踊家として活躍した明日さん。

 どれだけ体調が悪くても「絶対に舞台に穴をあけてはいけない」と亡くなる前日まで、ベッドに横たわりながら稽古に励みました。

 明日さんを、そこまで動かし続けたものとは…。

明日待子さんの娘 淑妃さん 「出征なさる方たちを目の前にした舞台とか、色々な経験をしてきたので、自分はやっぱり舞台に生きる人間なんだというところが、強かったんでしょうね」

明日待子さん(2017年撮影) 「(戦時中は)『もう明日死んでもいい』という気持ちで舞台に立ったんです。私たちはね、もう『滅私奉公』でね、一生懸命自分に与えられたね、芸術でお慰めできればいいと思ってね。一生懸命にした。もうね、2度と、戦争は嫌だと思いますよ」

(2024年8月18日「サンデーLIVE!!」)

クレジット:明日待子さん 提供:押田信子さん