門脇地区に住む濱谷勝美さん(79)。震災当時、地元消防団の分団長を務めていました。地震の揺れが収まると、ポンプ車に乗って住民に避難を呼びかけ、その後、学校に避難しました。しかし。
濱谷勝美さん「この体育館に逃げたんですね。ここに逃げて体育館の中に入って、その時一緒に水も流れてきました」
体育館に押し寄せる津波。一方、校舎で火の手が上がるのを目にします。津波が引くのを見計らって校舎の裏手に回ってみると、2階と裏山とを橋渡しするように教壇がかけられていました。津波と炎から身を守るにはこの教壇を使って裏山へ逃げるしかないと、とっさに思いつきます。
濱谷勝美さん「教壇を落としてこれ引っ張り出して、ここに教壇をかけて7、8人で上ったんです。私が最初に上っておぶっている人を引っ張って、後ろから押してもらって」
雪の重みでたわんでいた笹をロープ代わりに、教壇を斜面に立てかけて梯子のようにしてなんとか上へ登ることができました。
濱谷勝美さん「引っ張り下ろすだけだからそんなに重くはなかったんだろうけど、夢中だったから無我夢中ってやつでね。火事場の馬鹿力じゃないけど夢中でやったって状態でした」
カメラマン「沿岸部の門脇小学校です。火の手が上がり、校舎が煙に包まれています」
濱谷さんたちがかろうじて難を逃れた学校周辺は、夜になっても火は衰えず、鎮火まで実に3日を要しました。一方で、翌日から不明者の捜索や遺体の収容に当たり、その後もこの地域で暮らしてきた濱谷さん。
濱谷勝美さん「廃墟っていうかね。見てるとだんだん気持ちがしおれるっていうか。早く壊した方がいいのかなって。そのころはもっと荒れていたもんで、見るに忍びないっていうか」
震災の爪痕を残す痛ましい姿に、住民の間には校舎を残すか取り壊すか様々な意見がありました。濱谷さんにとっても門脇小は母校であり、子どもたちも通った多くの思い出が詰まった場所です。
当初は無残な姿を目にしながら暮らすことにためらいがありましたが、11年が経ち、地域の景色が一変する中で心境も変化してきたと言います。
濱谷勝美さん「この辺の地区の被害がね、いかに大きかったか。津波の恐ろしさと火災の恐ろしさっていう点で言うと、やっぱり残してよかったのかなって」