震災後、命を守るために建設された巨大な防潮堤。宮城県石巻市雄勝町では、防潮堤をめぐって今も複雑な思いを抱える住民が数多くいます。復興事業が終盤を迎えた今、防潮堤が残したものは何だったのか。関係者を取材しました。
雄勝総合支所阿部徳太郎元支所長「初めて来ました。いやー、やっぱ高いなっていうそれが率直な思う感じですね」
雄勝で生まれ高校卒業後から42年間、雄勝町と石巻市の職員として勤務してきた阿部徳太郎さん(63)です。2018年4月からの2年間は雄勝総合支所の支所長として、復興事業を進めてきました。防潮堤の建設に対する住民の意見をまとめ、石巻市に要望を出したり、地域に出向いて説明会を開いたりと、市と住民の架け橋になってきました。
震災前、徳太郎さんの自宅の目の前には海が広がっていました。津波で自宅を失い、海の怖さも美しさも知る住民の一人でもあります。景観か、防潮堤か。
雄勝総合支所阿部徳太郎元支所長「いろいろな考えがあるので、一つにまとまらないってことがほとんどでしたので、そういった中でこういった事業を進めてきたものですから、本当にこれで良かったのかなっていう思いは当時も今もありますね」
震災で、雄勝町では住宅の8割が全壊。173人が死亡し、今も70人の行方が分かっていません。
高さ最大9.7メートル、全長3キロ以上にわたって続く巨大な防潮堤は、震災後、命を守るために建設されました。
当初、町では住宅も道路も高台に移し、高い防潮堤は造らず美しい景観を守る計画を掲げていました。住民も同じ思でした。しかし、この計画はとん挫することに。
道路の高台移転は復旧の対象外で、国の復興予算が使えないことが理由でした。
雄勝総合支所阿部徳太郎元支所長「半分がっかりしましたね。今回のような津波が来ても、道路が(高台に)あれば住民の方もすぐに避難できますし、支援物資もすぐに来ますし」
一方、防潮堤であれば、国が特別に全額を負担する方針だったため、県や市は海沿いの道路はそのままにして、巨大な防潮堤を建設する考えでした。
雄勝町では、震災後、住宅を高台に移転。海沿いの住宅が無い場所にある道路を守るために、巨大な防潮堤がそびえ立っています。複雑な思いを抱えながら事業を進めてきた徳太郎さん。今でも葛藤は消えません。
徳太郎さん「復興で協力してもらったんで、ありがたいんですよ」
伝八寿司店主加納竜司さん「いやいや徳太郎さんには、食で人を呼んでくれってよく言われてたんで、食べ物でね」
20年以上の付き合いがある伝八寿司の加納さんも、景観を壊す巨大な防潮堤の建設には反対していました。
伝八寿司店主加納竜司さん「どんなけ反対しても、造ってるじゃないですか。
だから無理なんですよ。あれが止まってるなら話は別ですけど、ずんずんずんずん、反対しても造っていくので無駄じゃないですか。あるなりのことをするしかないっていう考えには変わっていました」
町は、住民の意見を石巻市や宮城県に要望しましたが、議論は平行線をたどり時間だけが過ぎていきました。
防潮堤の建設が始まれば、漁港など町全体の復興も早く進む。そう信じて、仕方なく同意した住民も多くいたと言います。
反対の声が根強いまま、町は2013年3月に防潮堤の建設を受け入れました。
雄勝総合支所阿部徳太郎元支所長「何10年、何100年に1回の津波のためっていうこと掛け合わせていくと、今、無くても良いのかなって、個人的にはする。
こっちの立場、そっちの立場でいろいろ思い巡ってしまいますね」
防潮堤の建設は支所と住民、そして、住民同士の間にも大きな溝を残しました。
雄勝で生まれ育った阿部晃成さんです。今は、宮城大学で地域に関わる人材育成について教えています。
晃成さんは、2011年5月に設立された住民らで作る雄勝地区震災復興まちづくり協議会の委員の1人でした。
雄勝地区震災復興まちづくり協議会元委員阿部晃成さん「雄勝の復興の進め方って、高台移転の時もそうだったんですけど、反対する人を消していくんですよ。呼ばないし、そもそも」
会議に参加していた住民誰もが、雄勝のいち早い復興を願っていたからこそ意見がぶつかりました。復興が遅れることによって、戻ってくる人が少なくなる。みんなそう思い、早い意思決定が迫られました。
雄勝地区震災復興まちづくり協議会元委員阿部晃成さん「焦っている中での意思決定では、少数意見であるとか熟議を重ねてみたいなところは切り捨てられて議論が進んでいったというところだと思います」
防潮堤の建設が始まったのは、計画を受け入れた3年半後の2016年7月。高台の造成などに時間がかかり、戻る予定だった人も町を離れていきました。震災前約4000人いた雄勝の人口は、現在1000人ほどになり人口激減に直面しています。
海と生きてきた、雄勝町。防潮堤が残したもの。
雄勝地区震災復興まちづくり協議会元委員阿部晃成さん「復興事業が残したものは、基本的には分断と排除です。後腐れです。この後腐れっていうのが、雄勝町の地域づくりをしていく時に、ずっと後遺症のように、残り続けるんだと思います」