宮城県の石巻市立大川小学校に通っていた2人の孫を津波で亡くした男性が、小学校の近くで桜を育てています。桜に込めた思いとは。
石巻市の釜谷地区。少し赤みがかったオオヤマザクラが咲いています。育てているのは阿部良助さん(75)。震災で2人の孫を亡くしました。
阿部良助さん「いつまで経ったって同じ。忘れられるものではないから」
震災前、釜谷地区には多くの人の生活の営みがありました。津波は全てのものを押し流し、ふるさとを奪っていきました。今では災害危険区域に指定され、住む人はいません。阿部さんも15キロほど離れた集団移転団地で暮らしています。
震災で亡くなった阿部さんの孫、菜桜さん(当時10歳)と舞さん(当時9歳)です。当時、大川小学校に通っていました。
阿部良助さん「長女の方は、落ち着いた素晴らしい孫だったんだよ。2番目の方はね、やんちゃで活発だけどなんか憎めない子どもだったね」
阿部さんが桜を植えるようになったのは、震災の約8カ月後。2人の孫や地区で亡くなった人を供養するためでした。
はじめ12本だった桜は、地元の人やボランティアの支援により5年後には釜谷地区と大川小学校で犠牲になった人と同じ数、269本になりました。
阿部良助さん「本当に植樹の日はね、みんな生き生きしてね。いかにして1本でも多くね成木っていうの、そういう木にしたいなと思ってね」
多くの人に支えられてきた植樹。中でも力になってくれた人物がいました。長野県の桜守、里野龍平さん(83)です。この日も、車で7時間かけ石巻市に駆け付けました。
里野龍平さん「(枝が)ありすぎるとだめなんですよ。光が入らない、風が通らない。木が最大の命を発揮できないんでね」
里野さんは、これまで自分が育てた桜を無償で提供し、津波で被害を受けた土地でも咲かせられるようにアドバイスしてきました。今も毎年、地区を訪れ手入れを行います。
里野さんがここまで力を入れるのは、阿部さんに出会った時に聞いた一言が忘れられないからです。
里野龍平さん「孫を育てるつもりで桜を植えたいということをおっしゃったわけ、突然。私もちょうど同い年で女の子の孫2人いましてね。だから他人事じゃなかったですね」
阿部さんが植樹した中に2本の特別な桜があります。ひと際きれいな花を咲かす菜桜さんと舞さんの桜です。
阿部良助さん「一番最初にきれいに咲いたからもう、これはうちの(孫の桜)だって。成長一番良すぎたんだこれ。うちの孫たちも、生きてれば22歳になってるからね。桜も負けないでずっと育ってほしいな」
植樹を始めてから11年余り。一緒に桜を育ててきた地元の人やボランティアとの絆はより強まっています。今回も、里野さんともに長野からボランティアが来てくれました。
ボランティア「桜も好きですし、そういうもので何かお役に立てればというだけの気持ちです」
阿部良助さん「桜もそうだけどね、人とつながりの方が強くなってきてんのかな。私が何かやるって言えば、みんな集まってくれるからさ、本当にありがたいんですよ」
4月9日。桜の下で花見をする予定でしたが、風が強く近くの建物に場所を変更しました。花見には地区を離れた住民やボランティア約40人が集まり、思い出話に花を咲かせました。
2人の孫を思い始めた桜の植樹。その桜を育てることが多くの人との絆を深め、今では阿部さんの生きがいになっています。
阿部良助さん「元気に育って見事に花つけてくれれば、私的には本望なのかな。体大事にして長生きしてね、見られる限り桜、眺めて過ごしたいなと思うね」