医療グループ『徳洲会』の創設者・徳田虎雄さんが10日、入院していた神奈川県内の病院で亡くなりました。86歳でした。

奄美群島区から立候補し、1990年の衆議院議員選挙で初当選した徳田虎雄さん。当時、戦った自民党の保岡元法務大臣との選挙戦は、“保徳戦争”とも呼ばれるほど激しいものでした。

医療改革を掲げ、当選4回。村山内閣では、沖縄開発庁の政務次官を務めました。

政界では、新党『自由連合』の設立に携わり、自ら代表に就任。かつて、徳田さんを取材したことがあるジャーナリストは、こう話します。

ジャーナリスト・青木理氏 「個人的な印象ですけど“怪人物”。功罪両面を持っているけれども、一代で日本最大の病院グループの徳洲会グループを、彼が作り上げたのは間違いないので、稀代の病院王というか、病院経営者としては、一定の評価をすべき人物なんだろうなと」

自らも医師であり、一代で、全国に展開する医療グループを作り上げた徳田さん。

1938年生まれ、鹿児島県の徳之島で育ちました。 医療の道を目指すきっかけは、小学3年生のとき。3歳の弟が高熱を出し、夜中に医師に診てもらえず、亡くなりました。このとき“貧乏人でも、夜中でも診る医者になる”と決心したそうです。

2浪ののち、大阪大学医学部に合格。1973年、35歳で、大阪に第1号の病院を開設し、2年後に医療法人『徳洲会』を設立しました。

『年中無休24時間オープン』『患者さまからの贈り物は一切受け取らない』など、患者第一主義を掲げ、全国に展開していきました。そのなかで、政界進出の必要性を感じたそうです。

ジャーナリスト・青木理氏 「実際に病院を作ろうと思うと、医師会とぶつかる。当然、ある種の許認可事業なので、行政と政治とぶつかる。政治に進出をして、自分の正しい目標のために、この国の政治を変えるというふうに彼は思ったんでしょうね」

一貫して推し進めたのは、離島や、へき地医療の充実。しかし、2002年、全身の筋肉が動かなくなる進行性の難病・ALS=筋萎縮性側索硬化症を発症し、2005年、政界を引退しました。

その状態でも、徳洲会の理事長を退きはしませんでした。 体を動かせなくなっても、目で文字を選んで意思を伝え、病院経営を続けてきました。

病床でも、故郷の徳之島への思いは強く、2010年、鳩山由紀夫総理が、アメリカ軍の普天間飛行場を徳之島に移設する案を固めたことに対し、否定的な意見を示しました。

徳田虎雄氏(2010年) 「普天間の問題は、全国民で解決すべき問題ですから、奄美は、戦後8年間の米軍支配で嫌な思いをしてきていますから、徳之島の民意から見ても、無理があるのではないかとお答えした」

引退後、東京地検特捜部の捜査対象となりました。 2012年の衆院選で、鹿児島2区から立候補した次男の応援に、病院の職員などを違法に派遣するなどし、親族や幹部などが、公職選挙法違反で有罪になりました。徳田さんも、選挙の取りまとめ役にあったとされましたが、ALSを患っていたことから、起訴猶予となりました。

ジャーナリスト・青木理氏 「へき地や離島の人たちにも、ちゃんと医療を届けるんだという思い、目標自体は何にも変わってない。それをとにかく目標にして突き進んだ。ピュアの目標のためなら、何してもいいと思っていたんだろう。僕らの感覚からすれば悪いこと。買収あるいは選挙違反を平気でやったわけだが、その目標自体は、おそらくピュアだったんだろう」