長崎は9日、被爆から79年となる原爆の日を迎えました。

『被爆体験者』は、国が指定する被爆地域の外にいたとして、『被爆者』とは認められていません。

『被爆者』と認めてほしいと訴え続け、裁判を続ける原告の一人を取材しました。

長崎市沿岸の網場町。当時4歳だった松尾栄千子さん(83)。幼馴染と遊んでいたときのことでした。

松尾栄千子さん 「突然でしたね。ピカーってして。ピカーっとするのと同時でしたね、強い風は。向こうに私は走っていきましたから、向こうからバシバシ石とか砂利が飛んできましたからね」

松尾さんは、小学3年生から、貧血に悩まされてきました。一緒にいた幼馴染は白血病で亡くなり、町ではこんな話が出ていました。

松尾栄千子さん 「その時分に、血液病がはやってるんですよね。原爆病ということは、当時はわかりません。はやり病と世間は言ってたんですね」

成人してからは、皮膚がんを何度も治療するなど、病気との闘いは続いています。ただ、松尾さんは、いまも『被爆者』とは認められていません。

国が被爆地域としたのは、爆心地を中心に南北約12キロ、東西約7キロ。それ以外の半径12キロ圏内にいた人は『被爆者』ではなく、『被爆体験者』としたのです。

松尾さんが住む町は、爆心地から東に8.1キロの距離にあり、『被爆体験者』とされました。

『被爆者』には、被爆者健康手帳が交付され、医療費は原則無料となる一方、『被爆体験者』には、原則、医療費の支援はありません。この格差をなくしてほしいというのが、松尾さんたちの願いです。

2021年、広島では、『被爆体験者』84人を、『被爆者』と認める判決が下されました。

爆心地から離れた場所でも、放射性物質を含んだ“黒い雨”を浴び、被爆したと認められたのです。

一方、長崎では、“黒い雨”が降ったという客観的な証拠がないなどとされ、いまも原告側の訴えは認められていません。ただ、砂や石の降る中を必死で逃げた松尾さんは、こう証言します。

松尾栄千子さん 「畑なんか真っ白でしょ、灰で。灰をかぶった水で、ごみなんかをよけて、その水で洗って食べてましたね」

ほかの被爆体験者も、同様の証言をしています。

灰が降った地区の人は『被爆者』と言えないほど、放射線の影響は少なかったのでしょうか。

実は、原爆投下の1カ月後、アメリカの専門家が放射線量を計るために長崎に派遣されました。軍からは「放射線が残っていないことを証明することが君の任務だ」と命じられましたが、調査をすると、爆心地から遠く離れた場所でも、放射線が計測されていたと、のちに明かしました。

ドナルド・コリンズ調査員(2004年) 「風下32マイル(51キロ)の地点では、通常の2倍の放射線量が計測されました」

原子力を研究する今中哲二研究員は、これらの残されたデータをもとに“残留放射線”を地図に落とし込みました。

松尾さんが住む爆心地から東に離れた地区を見てみます。

京都大学複合原子力科学研究所・今中哲二研究員 「3000(3msv/h)から5000、6000というのが並んでます。(Q.これは自然由来の放射線では説明できない)じゃないです」

専門家も、科学的に自然由来の放射線量ではないと指摘します。

京都大学複合原子力科学研究所・今中哲二研究員 「系統的に、こんなに汚染が広がってますから、原爆の降下物としてのエビデンスであることは間違いないです。長崎の場合は、黒い雨が降ろうがなかろうが、放射性物質が降ってきたというのは、エビデンスとしてしっかりあるわけですから」

松尾さんを含む44人は、いまも被爆者と認めてほしいと訴え続けています。国と戦い続けるのは、原爆を知らない世代に伝えたいこともあるからです。

松尾栄千子さん 「広島と長崎は一緒だと思いますよ。広島の方は見てくれて、長崎の方は見てくれない。病気したら苦しいですからね。なんも言えないくらい苦しいですから。そういう苦しい思いをしてる人は、たくさんいるんですよ。原爆というのは、これほどまでに恐ろしいんだということを知ってほしい」