震災当時、宮城県の石巻市市立門脇小学校の1年生だった20歳の大学生が、震災遺構になった母校と向き合い自身の記憶を語り始めました。

 石巻市の震災遺構、門脇小学校は明治6年(1873年)に創立され、140年余りにわたって子どもたちが学び集いました。

 高橋輝良々さん「津波や津波火災の恐ろしさを一生懸命に伝えている門小の姿と一緒に、皆さんが過ごした変わりない小学校生活がここにもあったんだよということを知ってほしいなと思っています」
 地元の中学生を前に校舎を案内するのは、門脇小学校に通っていた高橋輝良々さん(20)です。震災について人前で語るのは、この日が初めてです。

震災の記憶を語る

 石巻市で生まれ育ち2010年に門脇小学校に入学した高橋さんは、2階にあった1年2組の教室に毎日楽しみに通っていました。
 高橋輝良々さん「お楽しみ会とか何をするにも張り切って、色々な出し物とか積極的にやってくれる仲の良いクラスだったなと思います」

 2011年3月11日、下校中に揺れに遭った高橋さんは友人の「学校に戻ろう」の呼び掛けで校庭に戻り、残っていた上級生と避難しました。
 高橋輝良々さん「私たちに津波を見せないように、後ろは見るなと男性の方、先生だったのか地域の方だったのか分からないけれど、そうやって後ろから私たちの避難を支えてくれていた方がいたことを今でも覚えています」

複雑な思いを抱える

 高橋さんは、学校は失ったものの自身や育った町が被災者や被災地と呼ばれることには複雑な思いを抱いてきたと言います。
 高橋輝良々さん「家だったり家族も助からなかった人たちも多い地域の学校だからこそ、自分は山の上に住んでいたし被災の大きさとか(で違いが)あるわけではないと思うんですけど自分が話すべき経験、それぐらいの経験をしてるかって言われると不安に感じる部分は今でもちょっとあります」

 高橋さんに転機が訪れたのは、教員を目指して入学した大学のゼミ活動でした。震災について学びたい学生が集まるゼミで、聞き取りを通して被災地の実情を知る班に所属しています。

 ゼミの活動で大学1年生の夏、震災後初めて母校の門脇小学校に足を踏み入れました。
 高橋輝良々さん「こういうセットというか、作り物なんじゃないかっていうぐらい自分の目で見ると全く違くて。でもそういえば、こここんな色してたなとかあの子とこの廊下通ったよなとか、そういう思い出もよみがえってきて」

校長先生との再会

 翌年の活動で改めて門脇小学校をテーマにすることになった高橋さんは、当時の校長だった鈴木洋子さんと再会しました。
 教員として防災教育に携わりたいという夢を打ち明けると、高橋さんの目を真っ直ぐに見て語りかけてくれました。
 高橋輝良々さん「命を守る大切な教材になるから忘れないで、ずっとその思いを持ち続けてねって言ってくださったので。こんなふうに語りかけて、命を守っていくことをつなげることってできるのかもしれない」

 津波を見ていない幼い記憶だけれど、自分が感じたことを伝えたい。
 高橋輝良々さん「このクレヨンは、間違いなく亡くした私の大切な友人のものです。初めて来た時、この写真を見てずっと我慢していた涙をこらえることができなくて、何粒も何粒も流しました」

 震災との向き合い方に葛藤してきたのは、高橋さんだけではありません。幼稚園からの幼なじみ、遠藤あいさん(20)は高橋さんと一緒に門脇小学校に入学し、閉校を見届けた友人です。
 遠藤あいさん「まだ門脇小学校には行けてなくて。何かの機会には行きたいなとは思ってるんですけど、やっぱ絶対泣いちゃうなって思ってて」

震災との向き合いに葛藤

 震災遺構になった母校には苦しい思いを抱いてきたと言う遠藤さんですが、高橋さんが語り部を始めたという話を聞いて心を動かされました。
 遠藤あいさん「小学校にさ、ちょっと行ってみようかなっていう気持ちは今あるんだけど」
 高橋輝良々さん「この間はあんまり無かった感じだったよね」
 遠藤あいさん「無かった。けど、話してて」

 震災からもうすぐ13年が経ちます。当時、小学1年生だった子どもたちは成人式を迎え、自分の人生を歩み始めています。
 新成人誓いの言葉「石巻市出身者として誇りを胸に、しっかりと生きていきたいと思っております」

 高橋輝良々さん「いろいろな人に支えてもらってきた20年間だと思うので、自分も今度は教員として子どもたちや地域の人たちを支えられる大人になりたいなと思います。ちょっとずつだけど伝えることって本当に難しいなと実感したので、もっと自分の言葉で伝えるように経験を積んでいきたいなと思います」