1945年8月9日、現在の宮城県美里町小牛田へのアメリカ軍の空襲で、足を撃たれながらも戦後を生き抜いた男性の証言です。
小野寺煌治さん「こっちから、こう来たのさ。旋回したの、ぐっと(降りてきて)また上がってぐるりと回ってまた(攻撃してきた)」
大崎市田尻で暮らす小野寺煌治さん。終戦間際の1945年8月9日、国鉄職員として機関車に乗っていた小野寺さんは、陸前谷地駅近くで、アメリカ軍による機銃掃射を受けました。
急停車した機関車から飛び降りた小野寺さんは、とっさに車両の下に逃げましたが、弾は車両を貫通し、左足の甲と太腿を撃ち抜かれました。
小野寺煌治さん「棒でダーンとたたかれたような感じがした。太腿にも弾が当たった。それで出血した。血がべたっとついた」
機関車には、小野寺さんの他女性の車掌を含む4人が乗っていて、1人が亡くなったと言います。
小牛田が狙われたのは、当時から東北線や陸羽東線などが交わる交通の要衝だったためです。
小野寺煌治さん「ここに入ったために爆撃されて亡くなったんですよ」
実態がよく知られていない小牛田空襲。当時の状況を調べている沖田かつ夫さんは、空襲で、多くの民間人が亡くなったと話します。
沖田かつおさん「鉄道員だけで十数人が亡くなったと、いろんな文献を見たり証言を合わせるとその位の数に上ったようです」
空襲の際に撃たれた弾のものとみられる薬きょうを、保管している男性がいます。近くで農業を営む斎藤肇さんです。
斎藤さんの祖父が、当時小野寺さんが撃たれた陸前谷地駅近くで拾いました。
この薬きょうが使われた空襲でけがをした人が、その体験を伝えていると聞いて感銘を受けたと話します。
斎藤肇さん「まあ、びっくりしたというか。何で祖父がこれをとっておけと言ったのかが改めて身に染みたというか。実際に戦争で、戦闘でこういったものが使われないようにする社会を作りなさいという一つのメッセージが込められている気がしてならない」
あの日から77年。小野寺さんの足には機銃掃射によって撃たれた跡が今も残っています。
小野寺煌治さん「(弾は)こっちからこっちに行った。ここの所の一つの骨がない筋も切れて、そのままそれから70何年になる」 厳しい農作業はできないと考えた小野寺さんは、戦後、ワカメの乾燥機の販売などを手掛け成功しました。
それでも、足が不自由になった悲しみは消えません。ウクライナの戦争などで傷ついている人を見ると自分と重なると話します。
小野寺煌治さん「あの人たちはこれから生きていくのに大変だなあと思っている。こういうふうに不自由になるんだから。俺もね。この足だけが真っ直ぐであったらなと。そういう思いはみな同じ。共通しているさ。戦はするもんじゃない」