震災当時、小学生だった子どもたちが記憶を語り継ごうと語り部活動を行っています。子どもが見た大震災を語り継いでいます。
2022年11月に開かれた防災に関する講演会。震災の体験を話したのは、当時、小学生や高校生だった若い世代の語り部です。その一人、当時小学5年生だった宮城県東松島市出身の雁部那由多さん(23)です。
雁部那由多さん「追い付かれてピチャピチャと歩いて行けるくらいの津波だったのに、次に来た勢いのある鉄砲水のような津波には簡単にのまれてしまった」
雁部さんが通っていた大曲小学校は、海岸から約2.3キロ、川から約290メートルの位置にあり、海と川2つの方向から最大1.9メートルの津波に襲われました。大曲地区では326人が亡くなり、今も14人の行方が分かっていません。
雁部那由多さん「樹木は一緒ですね。震災の時にあそこの椅子が片方流されて、そのままになってます。震災の直前まではありました」
雁部さんは、小学校の昇降口で津波に襲われました。海側からの津波から逃れようと、昇降口に向かって走ってくる5人の大人の姿が見えたと言います。
雁部那由多さん「ドアノブを持って大人が入ってくるのを待っていたんですが、開けて待っていたら大人がちょうど真ん中辺り、スロープの先端辺りまで、私の方まで向かってきた時に左の方ですね、鉄砲水のような勢いで大きな波が来たことを覚えています」
雁部さんは、近くにあった壁にしがみついて何とか耐えていましたが、昇降口に向かっていた大人たちの真横を川から来た別の津波が襲いました。
雁部那由多さん「スローモーションのように時々思い出すんですけれども、一番前にいた男性がそこで手を伸ばしてくるんですね。自分の方に。手を伸ばした姿勢のまま、津波の中にスッと入っていくっていう。そういう光景を最後に見えたのを覚えています」
雁部さんは力尽き、つかまっていた壁から手を離したところ、開いていた扉から校舎内に押し流され、奇跡的に助かりました。
雁部那由多さん「一番苦しかったのは、片手を離して手をつかめば多分届いたということ。それでもやらなかったということですね。手を伸ばし返さなかったことによって助かって、今ここに立っているんですけれども、手を伸ばし返さずに人を見殺しにしてしまったっていう感覚はきっと一生残ると思ってます」
「自分の体験を次の災害に備えるために生かしたい」その思いで2015年、語り部を始めました。新型コロナの影響で、現地で語り部活動を行うことは少なくなりましたが、オンラインで続けています。
この日は、被災地支援などを行う全国のソーシャルワーカーに向けて語りました。
雁部那由多さん「地震の時はみんな不安に苛まれて、なんだなんだとなった後、もう理解が追い付かなくなりました」
雁部さんを招いた、公益社団法人日本医療ソーシャルワーカー協会の福井さんです。
震災当時、避難所で支援活動を行っていましたが、避難所にいた子どもたちが震災をどう見ていたのかずっと気がかりだったと言います。
公益社団法人日本医療ソーシャルワーカー協会災害支援チーム福井康江さん「(避難所にいた)子どもたちが元気なんですよ。お手伝いを一生懸命するんですよ。あーすごい子どもたち頑張ってるな。えらいな。元気のない大人たちを元気付けてるなっていう印象があったんですよ。だけど、いや、でもそんなわけないよねって。子どもたちが何も感じないわけがないよね。つらくないわけがないよねって」
雁部さんの話を聞いて、当時、子どもたちへのケアが足りていなかったことを再認識しました。
公益社団法人日本医療ソーシャルワーカー協会災害支援チーム福井康江さん「子どもは子どもなりの時間の過ごし方、特に友達と遊ぶとかそういうことが思い切ってできるような状況とか環境とか、そこをやっぱり守ってあげないといけなかったなというのは考えました」
語り部を始めて8年。雁部さんは、今、ある葛藤を抱えています。
雁部那由多さん「少し本音を言うと、この場所でずっと語り続けることはきっとつらいと思います。それは震災という時間にずっととらわれ続けることになるし、何か震災の経験から前に進めていないような気分にさせられちゃう時がたまにあるんですね」
進学や就職などをきっかけに語り部活動を辞める同世代を目にしてきました。
雁部那由多さん「人それぞれ語らなくなる理由はあるとは思うんですが、一つは前に進んだっていうことの証しでもあるのかなって僕は思います。なので、語りを辞めるということは僕はネガティブなイメージはないし、むしろ人によってはものすごく喜ばしいことなのかもしれない」
仙台市内の大学に進学し地元を離れたことで、自身も震災から距離ができつつあると感じています。一方で、震災を知らない世代にも体験を伝えたいという思いもあります。
雁部那由多さん「ものすごく大きな津波が来た地域にもそれを知らない子どもたちがいるということ、そしてそれがたった十数年で起きているということ。私たち自身がいつまでも伝え続けていくというのはとても大変なことでもあるし、ただ一方で、残さなければいけないなっていう思いもあって。彼らにここで何があったか、ここでどんなことが起きて、どんな人たちがものすごい努力をしてきたかっていうことを伝える機会が欲しいですね」