能登半島地震では、寒さや断水などで厳しい環境の避難所生活が課題となっています。東日本大震災の際に高齢者たちと共に避難所生活を送った介護施設の責任者に、当時の状況を聞きました。

 宮城県気仙沼市の介護老人保健施設、リバーサイド春圃で施設長を務めていた猪苗代盛光さんです。

 東日本大震災では施設が津波に襲われ、47人が亡くなりました。生き残った利用者や猪苗代さんらスタッフは震災発生翌日、高台にある鹿折中学校の体育館に避難しました。 しかし停電と燃料不足で大型の暖房器具は使えず、小さなストーブ2台で何とか寒さをしのいだそうです。

 猪苗代盛光さん「横になってしまうと多くの方が暖が取れないということで、車いすのままストーブを囲むという形になったんですが、寒さで亡くなった方がいたわけですね。その時に車いすごと倒れた音がまだ耳に残ってますよね」

 冷たいフローリングに高い天井、寒い体育館で避難した高齢者は次々と倒れ、4日間で11人が亡くなりました。

 助かった命を守るため、暖かく過ごせる新たな避難所を探したといいます。

 猪苗代盛光さん「震災関連死を防がなければならないなと思ったので、早めに次の場所を探して行ったんですね。たまたま小学校の教室が空いたという情報が入ったので、すぐ移ったんです」

 当時の経験から、高台に移転した現在の施設には湯たんぽや毛布など被災時に使う防寒具の備えを怠りません。

 猪苗代盛光さん「今、寒さというのが厳しい状況なのでその対策を早急にやっていかなきゃいけない。実際災害に遭われた方もやがては必ず元のような生活に戻れると思うので、今を頑張っていただきたいなと」