太平洋戦争末期に戦禍から子どもたちを守るために始まった学童疎開から80年です。当時、児童の世話をした98歳の女性が振り返る学童疎開とは。

 宮城県大崎市鳴子温泉にある「いさぜん旅館」。泉質の異なる3つの温泉が自慢です。

 砂金元子さん、98歳。

 今から80年前、母親や従業員とともに、旅館で受け入れた学童疎開の児童の世話をしました。

 砂金元子さん「これが疎開学童と撮った写真です。父親と母親と私の1番下の弟と疎開学童です」

 太平洋戦争末期の1944年、日本は劣勢となり、アメリカ軍による本土爆撃が危惧されます。

 政府は、大都市の国民学校に通う児童およそ45万人を地方に避難させ、鳴子温泉にも、東京からおよそ6500人の児童が疎開しました。

 児童たちは旅館の部屋で授業を受けたり、料理に使う薪を近所の裏山まで拾いに出かけたりして、一日を過ごしたといいます。

 当時のまま今も使われている風呂場です。入浴は児童たちにとって、唯一、心が休まる時間だったと言います。

 「ワイワイ騒いでね、やっぱりお風呂入ると誰でも気持ちいいから、もう、キャーキャー、キャーキャーって入っていました」

 元子さんたちが最も時間を割いたのは、児童たちの食事の用意でした。

 「味噌汁とごはんと何かちょっとしたものを、ほんとに、えらい粗末なもの。今の人たちになんか考えられない食事。魚だって何人分ってよこされるけどこんなもの(少ない量)だ」

 育ち盛りの児童たちにとって十分な量とは言えず、農家から野菜を買い足して食べさせました。

 「あまりにも少ないから量が。これではあまりかわいそうだっていうので」

 親元を離れ、見知らぬ土地での暮らし。中には「家に帰りたい」と泣き出す児童もいたといいます。

 (砂金さん、線路を見ながら)「こうやってみんな線路見てだったな。子どもたち揃って、こうやって汽車来ると「ポー」っていうとここ見て、あーやっぱり寂しいんだべな。やっぱりうち思い出すんだかなと思って」

 終戦後「いさぜん旅館」には、親や兄弟を亡くした50人余りの児童が身を寄せ、元子さんたちが翌年の春まで世話をしました。

 親から引き離された孤独感や耐え難い空腹。

 幼い子どもたちが犠牲を強いられた戦争。

 「今思うと、やっぱり親を離れて戦争の犠牲者だな。うん。なんでも戦争の犠牲者。国のためなんてね。何が国のためだかと思って、今はそういうふうに思うな、うーん」