地震と豪雨により壊滅的な被害を受けた能登半島の被災地で、東日本大震災で被災した宮城県石巻市雄勝町出身の男性が、震災の教訓を伝えようと奮闘しています。

 阿部晃成さん「現状だと、地盤がやられちゃうと難しいよなと思います」
 石巻市雄勝町出身の阿部晃成さん(36)は、宮城大学の教授として地域コミュニティーの研究を行い発災から数日後に能登半島に入りました。
 現在は、輪島市深見町の小学校の旧校舎を拠点に支援を続けています。

 東日本大震災で被災経験のある阿部さんは、地元雄勝町での復興の進め方に今も疑問を抱いています。
 阿部晃成さん「行政の提示した復興案に乗れる人だけを被災者として扱って、参加できない人は、被災地の外で生活再建されるんですね、被災者じゃない、と復興を通じて被災者を排除していった。能登の人にはそうなってほしくない」

地元の復興に疑問

 阿部さんのふるさと石巻市雄勝町は、震災前は漁師町として栄え硯の生産やホタテの養殖が盛んな町でした。
 東日本大震災で津波に襲われ、当時22歳だった阿部さんも家ごと津波に飲み込まれました。阿部さんと家族は奇跡的に生き延びますが、雄勝町は全体の8割近い1300世帯が全壊し多くの命が奪われました。

 地元に意恩返しをしようと、阿部さんは震災から2カ月後に復興を考えるまちづくり協議会に参加しました。協議会のアンケートでは現地再建を望む声が半数を占めましたが、宮城県や雄勝町が示したのは防潮堤を建設し街を高台に移すという案でした。阿部さんは、強い違和感を覚えたと言います。
 阿部晃成さん「議論の中で(移転まで)5年かかるという話が出たときに、5年待てる人はいないだろうと。高台移転だけではなくて現地再建もできないと。多くの人が地域を離れざるを得ないんだと」

 復興の遅れを懸念し早い意思決定が迫られたことで、住民の間にもゆがみが生じていきました。
 住民「高台移転は災害があった時に造ると法律で決まっているんですよ」「雄勝に帰れない、別な所に住むという人はそれでいいと思うんです。早急に復興しないと、帰る人がだんだんいなくなる」
 阿部晃成さん「戻りたかったんだけど戻れなくなった方々がいることは、是非覚えておいていただきたい」

 少数意見は議論から排除されていき、阿部さんも次第に話し合いに呼ばれなくなりました。
 高台の造成に時間がかかり、全ての住宅地が完成したのは震災から約7年後でした。戻る予定だった人も離れていき、雄勝町の人口は震災前の4分の1まで減少しました。
 阿部晃成さん「被災した人たちが住む場所が変わったとしても、これが自分たちの復興なんだと思える復興を進めていただきたいなと」

 能登半島地震の直後、阿部さんは東北の被災者とともに能登を支える東北の会を設立しまし、自分の知見を活かした被災者支援を始めました。阿部さんが支援するのは、人口減少と高齢化が進む過疎地域でかつての雄勝町と似た地域です。
 阿部晃成さん「孤立しやすい半島という地形条件に加えて、二次避難という形で被災地から人が出されていった。人を移動させると地域の自治コミュニティーも傷ついてしまい、その後の復興の話し合いも全部ストップしてしまう」

 石川県輪島市深見町は、能登半島地震の発生までは約70世帯が暮らしていましたが地震で壊滅的な被害を受け、住民の多くは石川県小松市などに2次避難を余儀なくされました。

 深見町の区長、山下茂さん(74)は東日本大震災の教訓を生かして地域のつながりを守ろうと、阿部さんを招きました。
 深見町区長山下茂さん「復興の進め方をこれからどうしていくか聞きたい」
 阿部晃成さん「皆さんがバラバラにならないのが一番大事です。地域を離れた方々にも、ちゃんと情報共有しておく。連絡を取り合える環境を維持しておくことが何より大事」

東日本大震災の教訓を伝える

 阿部さんのアドバイスを参考に、4月に開催した深見町復興祭と名付けた花見イベントには2次避難先からも参加し、住民同士が久々に再会しました。
 NPO法人紡ぎ組坂井美香副理事長「知ってる顔がまわりにあるということは、場所が変わってもみんな安心していられる。地域一丸になることが大事だと地域の人に伝えて、私たちも維持できるように活動しています」

 21日設立された能登官民連携復興センターは、行政と民間団体などをつなぎ復興を支援します。阿部さんは宮城大学を辞め、このセンターの職員として能登半島で活動していきます。
 能登復興に東日本大震災の教訓を生かすため、宮城から能登へ復興のバトンをつなぎます。
 阿部晃成さん「能登半島には能登半島の復興があるので、三陸の復興とはまた違う形に絶対なる。復興のために誰が一番汗流すのかと言ったら被災地の皆さんご自身なんです。被災者ががんばれる態勢、状況作りを注力していきたい」