1978年に発生した宮城県沖地震。建物やブロック塀の倒壊が相次ぎ、多くの犠牲が出ました。被害の様子を当時の映像で振り返ります。
地震発生直後に上空から撮影した映像です。3階建てのビルでしょうか、1階部分が押しつぶされています。別のビルも同じく1階が潰れているのがよく分かります。
宮城県では建物の倒壊が相次ぎ、全半壊約7500棟、死者は27人、負傷者は1万人を超えました。
被害額は約2700億円で、当時の県の年間予算に匹敵する額だったといいます。
地震の翌日、現在の仙台市宮城野区福田町にある高砂小学校です。体育館には避難してきた人たちの姿がありました。
子ども「きのうろうそくと懐中電灯で過ごしました。食べるものは市役所とか家から持ってきて夜は我慢して」
けがをした女性「私マンションの13階なんです。まともにガラスというガラスがブワーっと来ちゃってとっさに子どもをかばっちゃったので足を切っちゃったので縫っちゃって動けない。ものすごくて揺れがすごかったですね、うち13階だから」
地震から数日後の、現在の仙台市太白区緑ヶ丘です。余震で建物が崩壊する2次災害を防ぐため一部の住宅の取り壊しが決定し、住民たちは家財道具の運び出しに追われていました。
住民「撤去するようになります。築15年です。途中で増築しましたけど本当に残念ですね」
仙台市の担当者「思わぬ土が崩れたりするので、ゆっくり上の目方をとってゆっくり壊していく。宅地造成関係の規制の法律も無かったで、現在の宅地造成法からいけばちょっと許可にならない」
宮城県沖地震では、倒壊したブロック塀による被害が数多く発生しました。
当時の報道によりますと、宮城県で10人が犠牲となり、そのうち5人が小学校1年生から3年生の児童でした。
当時のブロック塀は鉄筋が入っていない物が多く、ブロック同士の接合も不十分でした。
宮城県沖地震をきっかけに建築基準法が改正され、住宅と共にブロック塀も安全性の基準が強化されました。