旧優生保護法の下、官民が連携して手術を推し進めていた状況を障害者施設の元職員が証言しました。

 仙台市青葉区の三宅光一さん(87)は20代の頃に宮城県の福祉施設、小松島学園で子どもたちの生活指導に当たりました。

 三宅光一さん「家に帰りたいと言って逃げていく子が毎日1人か2人いました。1日1回は警察に始末書を書きに行っていました」

 知的障害のある子どもの収容施設として、1960年に現在の仙台市青葉区小松島に設立された小松島学園は、小中学生80人ほどが集団生活を送りながら近くにある養護学校に通っていました。

 子どもたちに柔道を教えポパイと慕われていた三宅さんはある日、部屋の片隅でひざを抱えて泣く女の子の姿を見掛けます。

 三宅光一さん「押し入れの前で座って泣いていました。もうお嫁さんに行けない、と。つらかったですね」

 三宅さんは何が起きているのか分かりませんでしたが、その後民生委員や福祉事務所の職員が学園を何度も訪れていることに気が付きます。

 三宅光一さん「民生委員が連れて来るんです。両親の承諾書を持って私たちの所に来るんです。今度はこの子をお願いします、って。親の承諾があるから反対しても駄目だ、って言われて」

 三宅さんは、疑問を持ちながらも手術を止めることはできませんでした。

 小松島学園を運営した宮城県精神薄弱児福祉協会の設立趣意書には、目標として優生手術の徹底が掲げられました。
 政治家のほか地元企業の幹部が役員に名を連ね、県民から募金を集めて小松島学園が設立されました。

 1962年には、優生手術専門の愛宕診療所も開所されて、以降10年間にわたり宮城県は優生手術の件数が全国でトップとなり、旧優生保護法が改正されるまで1400人以上が手術を強制されました。

 官民一体で推し進められた強制不妊手術は、三宅さんが知る中でも小松島学園の子どもが少なくとも10人が手術へ連れて行かれたと言います。

 三宅光一さん「役所の人たちが行って親を説得して来るんでしょ。(障害者が)これ以上増えると困るからこれにはんこ押して、なんて言って。本人がちゃんと納得してからやってほしいと思いますね。可哀想だもの一緒にいた我々としては」

 旧優生保護法をめぐる裁判では、国は原告1人当たり1500万円の慰謝料を支払うことなどを盛り込んだ和解の基本合意案を弁護団に示しました。近く正式に基本合意する見通しです。