震災直後、宮城県気仙沼市に臨時災害FMとして誕生し、今も地域の情報を伝え続けている小さなラジオ局です。

 「時刻は午前7時になりました。おはようございます。周波数77.5メガヘルツ、ラヂオ気仙沼ぎょっとFMがお送りする直送!!朝一便!!」
 海を臨むスタジオから地域の情報を伝えるラヂオ気仙沼は、気仙沼市をエリアとするコミュニティFMです。

ラヂオ気仙沼

 昆野龍紀さん「この本装置から電話回線でサテライトスタジオに」
 ラヂオ気仙沼を経営する昆野龍紀さん(66)です。ラジオ局を立ち上げたきっかけは、東日本大震災でした。

 気仙沼市で船舶向けの無線会社を営んできた昆野さんは2011年3月11日、地震の大きな揺れを感じた後、妻や父親と魚市場の屋上に避難しました。何度も押し寄せる津波を見て更に高いところへ避難しようと、冠水している道路を通って逃げたと言います。
 昆野龍紀さん「歩いて行ったらこんな(胸の高さ)になったんですね。冷たい水だったので父親が気絶してしまって、妻と2人で無理くり抱き抱えて山の上に行く道路まで何とかたどりつけたんですよ」

 昆野さんの父親は意識を回復しましたが、自宅と会社は津波で流されてしまいました。地震から5日ほどが経ち、給水場所などの情報を求めて市役所を訪れた昆野さんはある光景を目にします。
 昆野龍紀さん「皆さん同じ事を役所の方々に聞いているんですね。いつ水が来るのかとか電気はどうなのとか。これだと効率が悪いし大変だなと思って」

 ラジオであれば生活に必要な情報をきめ細かく伝えられると、中学と高校の同級生だった菅原茂気仙沼市長や知人に協力を求めて、臨時災害FMの立ち上げに乗り出します。そして震災発生から12日後に有志のスタッフ数人と放送をスタートさせました。

臨時災害FMをスタート

 住民の安否情報や電気や水道の復旧について伝えた放送は、市民の心の支えになりました。
 菅原茂気仙沼市長「当時大震災に遭った市民は、多くが避難所にいて情報が非常に大切でした。災害FMの役割として非常に大きな意味を市民にとって、特に避難者にとって持ったと思っています」

 2017年に臨時災害FMからコミュニティFMに移行したラジオ気仙沼は、今も防災に力を入れています。
 パーソナリティの佐藤りかさんはこの日、地元の薬剤師と災害時に必要な薬や食料品の備えなどについて伝えました。
 「せめて皆さんが持ち出す(非常用)持ち出し袋の中に入っている物は、高カロリーかつ甘い物。あめ玉なんかあるといい。非常時の食べ物っていう意識をして入れておくことが大事ですね」

 佐藤りかさん「当時は無かった物が、こういうのあったらいいよねということで新しく生まれている。それがまた減災にもつながっているということを報告したい」
 地域の情報を伝えるラジオ局ですが、存続することは簡単ではありません。震災を機に宮城県で新たに開局した臨時災害FMは8局。その後、ラヂオ気仙沼のようにコミュニティFMに移行し、現在も放送を続けているのは3局だけです。

 存続できない最大の理由は、資金確保の難しさです。ラヂオ気仙沼も、臨時災害FMの時には気仙沼市からの年間2000万円の補助金で運営していましたが、コミュニティFMに移行してからは自分たちで資金を確保しなければならなくなり、スポンサー集めに苦労しました。

 様々な苦労がありながらもラジオ局を続ける昆野さんは、震災当時すぐに放送を始めていればもっと市民に役立つ情報を伝えられたはずだという後悔があります。
 昆野龍紀さん「その何日間ってすごく重要な何日間だったって思うんですよ。それが(約)10日に伸びてしまったのは始めてからすごく悔いが残った」

地域の情報を伝え続ける

 昆野さんは、大きな災害が起きてからではなく普段から地域の情報を伝えるラジオ局の存在が必要だと話します。
 昆野龍紀さん「(災害発生から)ちょっとでも時間が経ってくると、必要なものは本当に小さい地域の小さい土地の中の情報だと思うんですね。そこにFM局の価値があるのではないかと思っています」
 地域に安心感を与える存在を目指し、ラヂオ気仙沼は放送を続けています。