10万人を超える死者が出た関東大震災の発生から9月1日で100年です。当時、宮城県大崎地方の人たちが100人を超える救援隊を作り、現地で被災者支援に当たっていたことが分かりました。
1923年9月1日午前11時58分、首都圏をマグニチュード7.9の地震が襲いました。関東大震災です。
死者と行方不明者は10万5000人余りで、多くの建物が倒壊し首都圏は大混乱に陥りました。
震災発生後に宮城県大崎地方の退役軍人ら117人が東京に駆け付け、9日間にわたり救援活動を行っていたことが分かりました。
佐々木慶一郎さん「駅の中に群衆が入り込んで、場合によっては駅の中に寝泊まりする人もいる。そういった混乱の中で救援隊116人が派遣された」
救援活動を示す資料を初めて公開したのは、元女川高校校長の佐々木慶一郎さんです。関東大震災から100年に合わせて、石巻市の自宅で運営する平和資料館で展示しています。
救援隊が日々の活動の様子を記録した出勤報告です。震災から2週間後の9月15日、鉄道で一昼夜をかけて到着した大宮駅は、戒厳令が敷かれ警戒が物々しいと記されています。
一行は小学校に宿泊しながら、被災者であふれかえる日暮里駅や田端駅で乾パンの供給や乗降客の整理などを行いました。午前7時前から、時には夜まで行われた過酷な救援活動でした。佐々木さんは、時期的にも東京に行くには決意が必要だったろうと気遣います。
佐々木慶一郎さん「(救援に)行った人たちはほとんど農業をしている人ですから、9月の時期は稲刈りの準備に入る。そこを11日間、家を離れて自分の家の仕事を置いて東京で奉仕活動をするというのは、これはご苦労なことだと思います」
資料の中には、救援活動を終えた後に陸軍から贈られた現認書もあります。
佐々木慶一郎さん「東京に行ってどのような活動をしたのか証明するもの。そして証明とともに当時の田端配給部長の広瀬大佐からの感謝の意を込めた感謝状のようなものも兼務している。東日本大震災の時に各県からボランティアが活動に入っていただき非常に助かりましたよね。ですから、どんなに東京の人たちは感謝したろうかと思いますね」
この日、東北大学の佐藤大介准教授が佐々木さん宅を訪れました。関東大震災の宮城県の記録は、当時の地方の動きを知る貴重な資料だと評価します。
東北大学災害科学国際研究所佐藤大介准教授「東京で大きな地震が懸念されていますが、(地震が)起こった時にどんなことが起きるのか、実際に被災する場所だけでなく、周りというか日本全体にどういう影響を及ぼすか知る手掛かりとなります」
資料を佐々木さんに提供したのは、大崎市にある新澤醸造店の新澤擁子さんです。救援隊を率いた元陸軍中尉の新澤順吉氏は当時30代で新澤醸造店の当主でした。
資料は、東日本大震災の時に地震の揺れにより全壊した蔵から見つかりました。
擁子さんは、順吉氏の孫の妻で直接会ったことはありませんが、夫からはとても厳格で統率力のある人だと聞いていました。資料を見て東京に救援に行ったと知った時は、衝撃を受けたと言います。
新澤擁子さん「すごいなって。あんな焼け野原に。当時何の設備も何もない時代の中で飛んで行くだなんて」
新澤醸造店は、全国からの支援を受けて東日本大震災から再建することができました。
新澤擁子さん「皆さんに助けられ支えられて今がありますから。支えていただいていなければは今はありません」
100年前の順吉氏の支援が、めぐりめぐってきたとも言えます。
新澤擁子さん「縁を感じます。(順吉氏に守られたと)感じます。すごく感じます」
困っている人がいたら駆け付けて力を尽くす。その精神が、時代を超え受け継がれていることを、今回掘り起こされた歴史が語っています。