6434人が亡くなった阪神淡路大震災から、1月17日で30年です。宮城県石巻市では、地震が発生した時刻に黙とうが捧げられました。
石巻市の復興祈念公園にある「がんばろう!石巻」の看板前では、市民の有志が東日本大震災で寄せられた支援への感謝と鎮魂の思いを込めて追悼行事を開催しました。
約600個のLEDキャンドルに明かりをともし犠牲者を追悼しました。
黒澤健一さん「同じ時刻に黙祷を捧げてるんだろうなと思いながら、その方を思いつつ追悼の思いで黙とうを捧げさせていただきました」
遠藤伸一さん「追悼の思いを東日本大震災の被災地から重ねさせていただいた。悲しい思いをする人が少なくなるようにとの思いで黙とうさせてもらいました」
阪神淡路大震災では、国内で初めて震度7を記録し建物の倒壊や大規模な火災が相次ぎ6434人が亡くなりました。
仙台市青葉区の資福寺では、東北で唯一とみられる阪神淡路大震災の慰霊碑があり、朝から花束が手向けられていました。
慰霊碑は、阪神淡路大震災の直前に夫を亡くした檀家が震災犠牲者の冥福を祈り寺に寄贈しました。
管理する寺の住職は、改めて防災に対する意識を高めてほしいと願うとともに、犠牲者へ祈りを捧げていました。
資福寺住職澁谷芳円さん「遺族も世代交代がだんだん進んでいますが、できる限り供養を続けていきたいと思います」
阪神淡路大震災では食糧や毛布などの支援物資が不足し、宮城県からも支援の動きが広がりました。
1995年1月17日午前5時46分に、兵庫県淡路島北部を震源とする最大震度7の地震が発生しました。
全壊または半壊した住宅は約25万棟で、古い木造家屋の倒壊や大規模な火災が相次ぎました。
1978年の宮城県沖地震で支援を受けた恩返しをしようと、宮城県からも応援隊が続々と被災地へ向かいました。
児童「皆さんこうやって普通に学校に来ていますけど、神戸の人たちはものすごく学校に来るのが大変なのです」
お小遣いやお年玉を募金箱に入れる児童の姿も見られました。
約1週間後には、避難者の受け入れも始まります。
避難者「神戸は寝る所が無い状態になってしまっていて、私たちだけでは復旧できないので、とりあえず2、3カ月をめどにはしてるんだけど、それもまだはっきり分からんね」
浅野宮城県知事(当時)「これまでの災害のレベルでは考えられない新たな次元での取り組みということが絶対に必要だと」
阪神淡路大震災を機に、訓練で初動や職員の情報共有が意識され防災への意識が一層高まりました。
情報共有を意識した訓練が実施されるなど、防災への意識が一層高まりました。
阪神淡路大震災の経験を経て変わったことをまとめました。
1.耐震基準は、地震の揺れで倒壊しないための建物の強度を示します。1981年に大幅に変更されましたが、阪神淡路大震災ではこの新耐震基準で建てられた建物にも被害が出たため、2000年に一部が見直さました。
新たに耐震性の高い壁を外側にバランス良く配置したり、柱とはりの接合部などを金具で止めたりすることなどを義務づけています。
2.災害時の消防や医療体制などの見直しです。阪神淡路大震災では、初期の救助体制や医療体制の混乱も課題となりました。この教訓から消防救助活動を行うための全国の消防による緊急消防援助隊、迅速な警備活動などを行うための全国の警察による広域緊急援助隊が設置されました。
全国の医療機関が協力した災害派遣医療チーム、DMATが発足するきっかけにもなりました。
災害時に緊急度や重症度に応じて治療の優先順位を判断するトリアージが普及し、東日本大震災でも行われました。
3.地震の揺れの大きさを階級で表した震度階級も細分化されました。阪神淡路大震災前までは8段階でしたが、震災の翌年には幅の大きかった震度5と6に、それぞれ弱と強の階級が設けられ、現在の10段階になり、震度と被害状況の関係をより細かく把握できるようになりました。
日本に住む私たちにとって、地震災害は逃れることができません。30年前、多くの犠牲が払われたこの震災を忘れず、教訓を次への備えに生かすことが大切です。