東日本大震災の津波で全てを流されながら、宮城県名取市のゆりあげ港朝市は震災前よりもにぎわっています。1つのアイデアが、奇跡の復活につながりました。
午前10時前、鐘の音を聞きつけてゆりあげ港朝市に人が集まって来ます。せり市が始まりました。始めたのは、理事長の櫻井広行さんです。
ゆりあげ港朝市櫻井広行理事長「最初は20人から30人しかいなかったけど、続ける事が大事ですね。震災の後からだから11年目かな。今は200人くらい来てますもんね」
早朝から店先に立つ櫻井さんは、父の代からゆりあげ港朝市で鮮魚店を営んでいます。朝市を始めたのは父親の廣蔵さんで、約45年前に鮮魚店や豆腐店など4店舗からスタートしたということです。青果店から洋服店まで多くの店が軒を連ねるようになり、イベントも毎月のように行われていました。
にぎわいを見せていた朝市ですが、東日本大震災による津波が閖上地区を襲いました。ほとんどの建物が流され750人を超える住民が犠牲になり、朝市も跡形無く流されました。
櫻井さんの家族は無事でしたが、自宅も工場も失い朝市の仲間も犠牲になりました。
ゆりあげ港朝市櫻井広行理事長「4日後に戻ったけどがれきの山だしこれもうだめだと思ったけども、それで朝市の再建はすっかりが諦めついた」
朝市の再建を諦めた櫻井さんは、仙台市の店舗に残っていた食料を持って避難所を回り被災者の支援を続けました。
ゆりあげ港朝市櫻井広行理事長「体育館の脇に魚とか加工品を山積みにして、シートを敷いて毎日8カ所で配って歩いた」
支援を続けていたある日、被災していない人も食料を買える場所が無いという話を聞きました。
ゆりあげ港朝市櫻井広行理事長「被災していない人たちも困っているんだなと思った。何とか1回だけでいいから朝市を開いて、今まで朝市に来てくれたお客さんに最後の恩返しだと思って腹くくってやった」
震災から2週間後に名取市のショッピングモール駐車場を借りて開催した1度きりの朝市には、櫻井さんが思っていたよりもはるかに多くの人が訪れました。併設された広場では、震災で散り散りになった人たちが再会を喜ぶ姿が見られました。
ゆりあげ港朝市櫻井広行理事長「最後の花火を上げてやって良かったなと、終わって良かったと安心した」
1度きりの予定でしたが、次の開催日を期待する多くの声に背中を押され、朝市を復活させることになりました。震災の2年後には、カナダ政府などの支援により震災前と同じ場所での再建がかないました。
買い物客「これが待ちに待った朝市だなと思う。さっきから目が潤む。感激」
ゆりあげ港朝市櫻井広行理事長「潮の香りがします。松があって海が見える。やっぱりこの場所でなくちゃいけなかった」
被災地ににぎわいが戻りましたが、櫻井さんは満足しませんでした。買い物だけではなく、この場所に来ないと得られない体験を楽しんでもらえたらと考えました。毎日市場でその日の良い物、お買い得な魚介類を仕入れている櫻井さんは、目利きして自分が望むものを得られる快感を得られるなら、多少遠い場所でも足を運んでくれるのではないかと考えました。
ゆりあげ港朝市櫻井広行理事長「私が市場に行くと何かおいしい物無いかなとか、激安商品無いかなとか探すワクワク感があるので。一般の人は競りに参加する事が絶対無いので、ワクワク感を体験させたら面白いんじゃないかと思って」
この発想から生まれたのがせり市です。各店舗のお得な商品で買いたい物があれば、番号が書いてあるうちわを挙げて落札するという競りの体験です。
このイベントは好評で、午前9時ごろには帰り始めていた買い物客がお昼を過ぎてもとどまるようになっただけではなく、訪れる人の数も震災前の2倍になりました。
マイナスから始まった復興でしたが、櫻井さんはここまで来られたのは多くの人たちの力によるものだと考えています。
ゆりあげ港朝市櫻井広行理事長「何も無かった所からここまで立ち直れたのは、我々の力ではないですから。皆さんの力で支えられたということ」
2日には、震災当時に在日カナダ大使館で閖上の被災地支援を精力的に行った女性が、10年ぶりに朝市へやって来ました。
大阪・関西万博カナダ館ローリー・ピーターズ局長「この14年で多くの事が変わったが、未来は明るい」
ゆりあげ港朝市櫻井広行理事長「ここはワーワーにぎやかな事が、都会の人に受けてるみたいなんだよね。朝市で過ごしたらどこかに行ってもらうってことで、いくらかでも宮城県の観光に役立てるかなあとは思うんですけどね」