太平洋戦争の終戦から、2025年で80年です。航空兵として戦い続けた宮城県石巻市出身の男性が残した手記から、変わりゆく戦況と1人の兵士の思いが明らかになりました。

 石巻市中里で喫茶店を営む片岡多美子さん(79)。父親の伊藤平吾さんは太平洋戦争中に航空兵として137回出撃して生還し、不死身の航空兵と称されました。
 片岡多美子さん「幼少の頃は、父親が枕元で戦地のことを色々話していたのは覚えています。ぼんやりとは覚えているけど、眠り薬にしか感じていなくて」

 71歳で病死した平吾さん。遺品の整理をしていた時、多美子さんはあるものを見つけました。
 片岡多美子さん「65歳の時に書いたようで、バイクで交通事故に遭って入院している時に書いたんじゃないかな。今は(戦争を)知らない人が多くなったので、残す人も少なくなったから自分が残さなくてはという思いで書いたようです」
 自身の生い立ちや戦争体験を書き記した7冊の手記が見つかりました。開戦から終戦まで、刻々と変わりゆく戦況が鮮明に記されていました。

航空兵が残した手記

 1941年12月8日、日本軍はアメリカ海軍の基地があるハワイの真珠湾や、マレー半島を奇襲し太平洋戦争が始まります。12月10日には、日本軍のマレー半島進出を阻止したいイギリス軍と激突しました。マレー沖海戦です。当時、ベトナムの航空基地に配属されていた平吾さんはイギリス軍の戦艦への攻撃を命じられました。

 補足撃沈すべしとの命令降りる。一同は「よーしやるぞ!」とばかり、まさに武者震いする思いである。
 英国が世界に誇る不沈艦として豪語していた戦艦であり、航空魚雷で果たしてこの巨艦は沈むのか?これは全く未知数である。

 日本軍は90機もの爆撃機を発進させ、イギリス艦隊に対し爆弾と魚雷で繰り返し襲い掛かりました。

 大きな水柱が真っすぐに立ち上がった。命中!!敵艦は大きく傾き始めたとみるや、二隻とも沈没し始めた」

 戦艦2隻は、わずか3時間で沈みました。行動中の戦艦が飛行機の攻撃で沈んだ海戦史上初めての出来事でした。アメリカは、これを教訓に空母機動部隊の増強を急ピッチで進め後に巨大な航空戦力で日本を追い詰めることになります。
 開戦から数カ月、日本軍は東南アジア、太平洋の重要地域を占領が勢力圏を拡大する中、平吾さんの手記には戦争への懸念をにじませる記述も見られます。

戦争への懸念も

 戦争の規模が違う、これから英米を敵に回して戦うということは大変なことになるぞ。

 1942年、平吾さんは横須賀航空隊の訓練生の教員となります。この頃、連戦連勝していた日本に大きな分岐点が訪れます。太平洋に浮かぶ島をめぐって行われたミッドウェー海戦です。日本軍が航空機の優位性を示したマレー沖海戦から半年、今度はアメリカの急降下爆撃機が日本の戦艦を狙いました。

 「ミッドウェーにおいては我らに大損害があったこと、山本五十六元帥の戦死という最も厳しい戦局を迎えざるを得ない状態となったのである」

 この戦いで日本は、主要空母4隻航空機約300機を失います。この後、平吾さんは硫黄島に配備され偵察などを行いました。手記には、激化する戦況や武器の不足を嘆く記述が増えていきます。

 あっまたやったとみていると無念、日の丸が付いている味方機である。搭乗員が倒れていた。誰だろうと気を配ったが、首から上がどこへ飛ばされたのか、無いのである。

 そして終戦を迎えた1945年8月15日。敗戦を受け入れられなかった平吾さんは「日本は敗れることはない、戦いはこれからであると書いたちらしを神奈川県横須賀市にまき、ひとり敵軍に特攻する準備を整えました。

 いつ特攻をかけても良いとすっきりした気持ちになりベットに眠った。

 平吾さんの手記はここで途絶えています。どういう経緯で特攻をせず石巻市に帰ってきたのかは、今も分からないままです。
 片岡多美子さん「こんな危険な目に遭っているのに本当に運がよかったのかなという感じですよね。良く戻ってきたなって」

父親の手記をまとめる

 平吾さんの記録は、多美子さんによって本にまとめられました。
 片岡多美子さん「戦ってくれた皆さんの礎に基づいているわけですから、絶対戦争っていうものがあってはならないっていう気持ちで、今の若い子たちもあまり関心はないと思うけれど伝えてもらいたいなという気持ちですよね」
 終戦から80年。不死身の航空兵は手記を通して戦争の悲惨さを伝え続けています。