旧優生保護法の下で不妊手術を強制されたとして、宮城県の原告らが国に損害賠償を求めた裁判は、3日に最高裁で判決が言い渡されます。全国で初めて被害を訴えた女性が、判決言い渡しを前に心境を語りました。

 飯塚淳子さん(仮名・70代)「泣き寝入りしたくなかったんでね。うそのまんま闇に葬られては困る。その思いがすごくありました」

 仙台市の飯塚淳子さんは16歳の時、国の政策によって子どもを産み育てることを奪われました。

 「出掛けるからついておいで」住み込み先の奥さんに連れられ、仙台市若林区の愛宕橋のたもとにあった愛宕診療所に向かいました。

 飯塚淳子さん「いつ眠らされたかも分からないし目が覚めた時に洗面所があって、のどが渇くので水を飲もうとしたら飲んじゃ駄目だと言われた」

 後日、両親の会話を聞き不妊手術を受けさせられたと知りました。

 手術を可能にしたのは、終戦直後の1948年に制定された旧優生保護法です。障害のある人などに本人の同意の無いまま不妊手術を強制することを可能にしました。

 当時は、親の障害が子どもに遺伝すると考えられ条文には「不良な子孫の出生を防止する」と明記されていました。

 飯塚淳子さん「私の人生を返してほしいと思っています」

 今から27年ほど前、飯塚さんは優生保護法により手術をされたと全国で初めて声を上げました。

 国に被害の調査を依頼しましたが、当時は合法だったと門前払いされました。更に、宮城県に手術記録の情報公開を求めますが。 県職員「立証してほしいという気持ちは分かるんですけど」

 飯塚淳子さん「それじゃあ、あんまり無責任じゃないですか。実際手術されているのに、これから裁判する上で必要になってくると思うので」

 永久保存であるはずの手術記録が破棄されていたため、手術を受けたことが証明できず提訴に踏み切れませんでした。

 事態が動いたのは2018年でした。不妊手術を強制された人への補償を求める日弁連の意見書を受け、村井宮城県知事が飯塚さんの手術を認め、提訴に踏み切ることができました。

 一審二審ともに旧優生保護法の違憲性は認められましたが、不法行為から20年が過ぎると損害賠償請求権が消滅する除斥期間を理由に訴えは退けられました。

 飯塚淳子さん「何で裁判所はもっときちんとやってくれないのか、違法に行われた問題なのに何でこんなことをやってるのか、腹が立ちます」

 飯塚さんが被害を訴えて27年が経過し、部屋には数々の資料があります。その中に、1通の手紙が残されています。1997年の秋ごろ、亡くなる直前の父が病室で書いた手紙です。

 「至急手術するように話があったのでせめられてやむなく印鑑押せられたのです優生保護法にしたがってやられたのです(原文)」

 飯塚淳子さん「親にはっきりしろと言ったことで書いた手紙。強く親に当たったこともありました。親がやったことじゃないけど、親がやったと思ったら国のやった問題で」

 これまでの思いを抱えて、最高裁の判決言い渡しを迎えます。

 飯塚淳子さん「私、27年声上げてきて長かったなあって。良い判決が出たよって知らせたいなって」

 最高裁は、仙台や東京などの高裁で判決が出され上告された5件について審理していて、統一判断が示されるとみられます。判決は3日午後3時に言い渡されます。