12年前の3月11日、被災者の命と向き合った石巻市立病院。当時、何が起きていたのか。映像や証言で振り返ります。
映像には、地震や津波の映像が含まれています。強いストレスを感じたり、体調が悪くなったりする方は視聴をお控えください。
2011年3月11日午後2時46分。大きな揺れが石巻赤十字病院を襲いました。
石巻赤十字病院では、宮城県沖地震に対応するため職員の行動指針を示したマニュアルを作成して訓練を重ね備えていました。
地震発生からわずか4分後には、会議室に災害対策本部が設置されました。
当時、災害対策本部の広報班としてビデオカメラで初動を撮影し続けた青木義浩さんです。
青木義浩さん「揺れが始まってちょっとこの揺れは大きそうだなとなって、すぐカメラを持って撮り始めたって感じです。無我夢中というかそういう感じだったと思います」
地震発生から57分後には、災害医療の最前線となるトリアージエリアの設置と医師の配置が完了しました。
医師が患者を選別し治療の優先順位をつけるトリアージ。植田信策医師は、重症者対応をする赤エリアを担当しました。地震の大きさから、発生後すぐに多くの傷病者が運ばれてくることを想定していました。
植田信策医師「震災発生してすぐはですね、患者さんがほとんど来なかったんですよ」
救命不可能の超重症患者に当たるトリアージレベル黒エリアを担当した、看護師の日向園惠さんは当時を振り返ります。
日向園惠看護師14175715「その日はたくさん来るのかなと思って、スタッフ集まって準備をしていたんですけど、ほとんどというか全然来なかったんです、運ばれてくる方が」
その頃、仙台空港を襲う大津波がテレビで繰り返し報道されましたが、石巻市の被害状況については分からなかったと言います。
植田信策医師「ここは沿岸部から4.5キロ離れてますので、津波そのものは見えませんし、どの程度被害があったか情報が入ってこなかった」
その後、石巻市の沿岸部は津波で壊滅的な被害を受け、医療機関が機能停止になったことが分かりました。夜になると、徐々に運ばれてくる患者の数が増加。患者にはある特徴がありました。
植田信策医師「低体温症がトータルで4分の1以上を占めていたと思います。低体温症というのは津波で流された方がですので、そういった方たちが救い出されて運ばれてきた」
これまでの訓練で想定していたのは、阪神・淡路大震災の時のように住宅の倒壊などによる負傷者。いわゆるクラッシュ症候群の患者でした。
ところが、多くが津波にのまれたり、長時間にわたり屋根の上や倒壊した家の中に取り残されたりして、寒さで体温を失った低体温症の患者でした。
治療は、呼吸や血圧に注意しながら体をひたすら温めて体温を上げる必要があります。職員たちは、病院中の毛布を集めてとにかく患者を温めました。
阿部浩幸薬剤師「体温の低い方がいらっしゃいましたので、その体を温めるのに注射薬で柔らかいバックがあるんですけど、そういったバックを温めて患者さんに提供した」
本来、災害の現場のトリアージで超重症者である黒と判定された人は、病院に運ばれることはありません。病院に搬送されるのは治療によって救える命だけです。
しかし、地震から一夜明けると自衛隊や消防から次々と遺体が運び込まれました。
日向園惠看護師「本来想定されているのは、黄色とか赤のエリアで診察をして治療をして、それでも助からなかった方って形で、ある程度エリアをまたいで来られる方を想定していたので、いきなりご遺体という形で運ばれてくるっていうのは全く想定してなかったです」
葬儀会社や火葬場も被災していました。日向さんは、来る日も来る日も遺体と向き合いました。
日向園惠看護師「ご遺体の管理ってもちろん自分たちも経験がないんですが、夜も関係なくみんなで勤務しました」
震災発生から100日間で、石巻赤十字病院に搬送された救急患者は1万8000人を超えました。この数字は震災前の3倍です。
あれから12年。多くの避難所で環境の悪さを目の当たりにした植田医師。
植田信策医師「仲間たちと一緒に、避難所避難生活学会というのを作ったわけです」
避難生活の負担などで体調を崩して亡くなる災害関連死を防ぐため、清潔で安全なトイレや温かい食事の提供、雑魚寝防止の環境を発災48時間以内に構築する必要性を訴えています。
あの日、多くの遺体と向き合った日向さん。
日向園惠看護師「震災を経験して形あるものは無くなっててしまうんだなというのがすごく感じて、学んだことはどんな災害があっても無くならないというか、そんなことも震災を機に考えたというか感じたことではありますかね」
災害の最前線で闘った医療従事者。教訓を刻みます。